次男の真新しい国語の教科書にあった、幸田文の短編『濃紺』。
濃紺色のはな緒にほっそりした白い足が思い浮かび、色の対比が
読後のすがすがしさを増して、郷愁に似た思いが胸に残った。
主人公きよはお針子で家計を助けていた。心付けで普段履きの下駄
を買う楽しみ。ある日、見事な繁柾に感嘆の声を漏らすが、手の届
かないものに心を奪われた決まりの悪さを胸に、店を後にする。
その夜、いつもの店員が「あなたに履いて欲しい。自費なのでクセ
のある木しか使えなかったが、その分手間をかけた」と根元に近い
部分で作った柾目を持って現れた。もう故郷へ帰ると言う。
”なんて贅沢なものをと人には思われるだろう。あらを語れば、あ
の人に悪い。”彼女は、そのクセのある木のいとしさと、贈られた
自分の巡りあわせを想いながら、歯つぎに出しては大切に履く。
最初はえんじ、しそ紫、濃紺と、はな緒をすげ替えて。
”今度はき減らせば別れ”になる時、彼女は行李の奥にしまい込む。
「下駄をはく人などもういない」と言う孫の言葉に、30年ぶりに取
り出してみると、”きよの心にこたえて、見勝りする姿で”あった。
こんな素敵な人とモノとの付き合いは、もう望み薄いのではないか
しら。同じ消耗品でも、値打ちや重みが違うもの。
最近のきものブームで”下駄の音が気になる時や、長持ちさせるに
はゴムを張る”と雑誌にあったが、木は減るからこそ潔いし大切に
するのだ。音をさせてはいけないなら、履かなければ済むことだ。
抑制のきかない処に、美しさはないと思う。
幸田文の切れ味良く気品ある精神が際だつ、この頃である。
2006.0418