県立陶芸の森で開催されている『岡本太郎と信楽展』を見に行った。
今年、生誕100年になる岡本太郎と信楽が関係するのは、”1970年の
万博会場の「太陽の塔」を作った”程度だと思っていた。
ところが、信楽との付き合いの始まりは1964年の東京オリンピック
の代々木競技場のレリーフ作成からと知って驚いた。その後、多く
の会社の壁面を信楽で作っていたようだ。
有名な「太陽の塔」の”黒い太陽”を作成した時に、信楽の多くの
若者が参加した。
今や70代80代になった彼らの、当時を振り返っての感想文が面白い。
「原初的で異端児」「身体から芸術のマグマが四方八方に溢れてい
る人」・・・想像通りの人物評だ。
「空は青い!青いと感謝する心が必要だ!」と話した信楽高校での
講演を、「高校生の頃はなんて当たり前のことと思ったが、今にな
ってしみじみその大切さを思う」と書いている。
彼らの中で造形作家や陶芸家になった幾人かは、岡本太郎が「自分
の原点を探して縄文土器に出会った」ように、自分は何を求めるの
か影響を受けたと話す。
十数年前の岡本敏子が「万博の太陽の塔の作成は、それはもう喧々
諤々だったのよ」と言った話が、一番心に残った。
好き嫌い良し悪し。あれだけの大きな、世界中が注目するモノを作
るのだから、相当な反響だったことだろう。それを想像してクスッ
と笑ってしまう。
岡本太郎のエネルギーは、今も日本中のあちこちで残り続けている。
2011.1109