20年間、めったに見ることのなかった会社の裏山を、「かまーとの
森」を開いてからというもの、1週間に3,4回は眺めている。
今年はヤマツツジの開花が早いなと思っていたら、もう万緑の風情
だ。ウツギの小さな白い花がいっせいに咲き出し、甘い香りを運ぶ。
3月末に、陶芸家の藤本さんが、数本の剥がれたような木肌を見て、
「珍しいね、この木は何だろう」とおっしゃった。まだ判明してい
ないのだ。先日いらした時には、葉を採って帰られた。
サワサワと葉の擦れ合う音が聴こえる。本で調べるとヤマボウシか
と思うが、梅雨時に花が咲くとあるのに、蕾さえない。別の木なの
か、それとも梅雨入りは誤報だったのかと芝生や花壇に水を撒く。
河野裕子のエッセイ集『桜花の記憶』を読んだ。
短歌によって、自分の才能を最大限に伸ばし、最後の最後まで誠実
に短歌に向き合った方だと感銘を受けた。
病に侵された末期の河野裕子は、“病んでいても、健やかな歌を作
りたい”と書く。その前向きな精神には、清々しさを感じる。
日が経つにつれて、別に浮き出てくるものがあった。
それは、河野裕子の母、河野君江の「物を忘れ添いくる心のさみし
さは私がだんだん遠くなること」という歌だ。
痴呆が進んでいく中、言葉を汲み出すことが、自分を取り戻すこと
になるのか。歌を作ることで、現生を繋ぎ止めおこうとするのか。
生きていることの証として、書き留める行為。
この親子の短歌を軸にした生き方を思う時、季節の移ろいや生活の
営みの微かな動きに気づく眼を、改めて教えてくれた気がする。
2013.0609