派遣の人の都合が悪くなり店番を長男に頼んだので、私は休日の
予定だった。ところが10時過ぎに、マネージャーから買い物の依
頼と応援要請の電話が入る。

急ぎの買い物を終えて、スーパーで一番上等の鮨折を買った。

今日は長男の29歳の誕生日だ。誕生日を一緒に過ごすなんて事は、
ここ何年もなかったので、ささやかにお祝いをしてやりたい。


鮨を買ったのは、先日読んだ岡本かの子の『鮨』が影響している。

食が細く偏屈な性分の少年は、一度臍を曲げると頑として食べない。
痩せ細る子に何とか食べさせようと、母は真っさらな道具を日の当
たる処に広げ、薔薇のような手のひらを見せてから小さな鮨を握っ
た。初めて一口食べた、酢飯の甘酸っぱさと白身魚を咀嚼した旨さ。

長じて独り身の初老となった男は、度々鮨屋を訪れるという短編。
何て鮮やかで且つ理想的な食に直結した母の愛情だろう。


忙しい合間を縫って昼食をとった長男は「とても美味しかった。あ
りがとう」と言った。その言葉が私の中にじんわりと拡がっていく。
まるで『鮨』の主人公の男が礼を言ったかのように。

「コーちゃん!」と5歳くらいの女の子が、店内を走る小さな男の
子に呼びかける。奇遇にも長男と同じ名前のその子は、明日2歳の
誕生日を迎えるとお母さんがおっしゃった。

産んだ日のことはありありと覚えているけれど、子育てもそれから
の年月も夢うつつになっている。

帰り際、長男から我が家とは違う洗濯洗剤の香りがした。もう彼は
新しい家庭に居るんだったな。

2015.0528