岩波書店・荷風全集の24巻目に挟まれていた解説の栞から。

戦争の気配が濃厚な頃、荷風は「世界の形勢時代の変遷には豪も煩
はさるるところなく其境遇の変化さへさして心を労せざるが如き様
子なり。これを見るにつけ無智の女ほど強きものはなし」と書いた。

それを『どこにでもいるこういう無智な女は、深海の底にひとつの
世界をつくっている。だが荷風はその世界の一部に自分がなること
はできなかった』と鶴見俊輔が解説している。

それはそうだろう。荷風は所謂上流社会から下降している見識人だ
から、そこに安穏とするわけがない。

しかし今や無智な女はいないし、無智を装い深海の底に暮らそうと
しても無理だ。世界中の老若男女が、眼を塞がず耳をそばだててい
る。新型コロナウィルスは、誰もの生活を脅かしているもの。


昭和十三年の荷風日記から抜粋する。 
『四月十一日 風雨暁に霽る。銀座に飯して後・・・帰途片月あき
らかなり』『十三日 晴。目覚めれば日既に哺なり。日本橋三越洋
書部に行き・・・』『十四日 晴。また陰。南風烈しく落花雪の如
し』『十五日 晴。午後に目覚む。晩間銀座不二あいすに飯す』
銀座の情景、気温や匂いが行間から浮かび上がる。

筍の木の芽和え・ホタルイカの釜上げ・鰹のたたき。裏通りの小路
から見上げた銀座の空は、ネオンに照らされて明るい透明な灰色だ
った。すでに酔っているのに、まだ宵の口。柳は風に揺れている。

年月が経とうと、ついこの間まで荷風と同じように味わえた街のあ
れこれが、遠い出来ごとのようになってしまった。

2020.0408