昨年末の、仏典童話作家の渡邉愛子先生との二時間余りの歓談は、
とても愉しいひとときだった。ドナルド・キーンのファンとおっし
ゃる先生に、『百代の過客』を読んでいた私は膝を打った。

先生は、ドナルドの幼少期から学生時代、日本びいき、戦争の頃、
晩年の帰化、養子のことなどをお話しくださった。柏崎市へ人形浄
瑠璃を観に行った時、ドナルドさんが前の席に、二度目に行った時
は彼が後ろの席だった偶然を、少女のような笑顔で話された。

上下・続上下の四冊からなる『百代の過客』の、最後の一冊を読み
すすんでいる。先生のおかげで、さらに親近感を持つようになった。


平安時代からの有名無名の日記を、よくぞこれだけ読み込んだもの
だと感心の連続だ。男性は役職や肩書で書く人が多く、その内容の
退屈なこと。ドナルドも辟易したに違いない。

その中で、キラリと輝く呟き、本当の感想を発見した時は、読んで
いる甲斐があるというものだ。それは私にとっても同じ思いだ。

楽しく読めるのは、風潮が理解できる大正・明治時代からだ。例え
ば、森鴎外の自由闊達なドイツ生活は、現代とあまり変らない。

天候のことは一切書かない人。「嗚呼」が頻繁に出てくる人。自己
嫌悪連続の人。まるで現代のウェブログではないか。

『峰子日記』の、峰子と友だちになりたい。演劇に造詣の深かった
峰子は、息子・森鴎外作の芝居を観て「よくは無けれど一寸面白し」
と容赦ない。嫁との不仲など書かず、総じて辛い演劇の寸評を記す。

日記の面白さは、人間性が浮彫になることだと思う。寝る前の読書
ではあるが、『百代の過客』を読み終えるのが惜しい気持ちでいる。

2024.0108