単行本の帯に「心愉しいこの本を読んでいると、はるか昔に降った
雨が、きりもなくいま窓を濡らすみたいだ。」江國香織 とあった。
初めて手にした小津夜景の本。『いつかたこぶねになる日』は読む
たびに静かな衝撃が重なり、なんて素晴らしいエッセイ集かと思う。
茶道で漢詩の掛軸を目にする機会は多いが、難い文言ばかりと思っ
ていたから、小津夜景の選ぶ詩と訳のセンスに感動したのかもしれ
ない。例えば、夏目漱石「無題」からの抜粋で、(礫は白編に樂)
的礫梅花濃淡外 まばゆい梅の花は 濃いや淡いのたぐいを越え
朦朧月色有無中 おぼろな月の色は 有ると無いのあわいにある
より情景が思い浮かびやすく、対句の巧さに気づく。
楊静亭の「わんたんスープ」では、(略)餡融春韮嚼来香 肉餡に
春の韮がとけ 噛むとふくよかな香が広がる(略)嚥後方知滋味長
のどを通りすぎたあとにこそ うまさの余韻はわかるのだから
食堂の宣伝文みたいな詩に、思わず口元がゆるんでしまう。
藤原忠通の「賦覆盆子」は、野いちごの美味しさを讃え"山と盛っ
たこの珍菓にいつしか悩みも消えた"は、そんなに可愛い詩なのか。
同じ様に、杜甫・白居易・徐志摩・良寛らが登場する。それらは古
い時代の詩ではなく、現代に浮かび上がり、共感や親しみを感じる。
題名の"たこぶね"が印象に残った。母タコは、子育て中はゆりか
ごのような貝殻を付けるが、子が巣立つと貝殻を捨て、身ひとつに
なるそうだ。まさに、今の私ではないか。海底に落とした用済みの
白い貝殻と、大海を自由に泳いでいくタコを想像する。永井玲衣が、
あとがきに書いていた「どこかさみしいが、心細くはない」と。
2024.0608